菅原道眞公を奉祀する亀戸天神社は
一般には広く「亀戸の天神さま」や「亀戸天満宮」呼ばれ皆様から親しまれております。
亀戸天神社は、古くはご本社にあたります九州の太宰府天満宮に対して、東の宰府として「東宰府天満宮」、あるいは「亀戸宰府天満宮」と称されておりましたが、明治6年に東京府社となってより亀戸神社と号し、昭和11年に現在の亀戸天神社と正称され、長くにわたって皆様から親しまれております。
御参拝いただいてから約20分程で、境内を廻ることが出来ます。また、境内には100基以上の石碑等もございます。お立ち寄りになられる場所や目的によってはお時間が異なりますので、下記のページの境内マップをご参照ください。
※藤まつり期間中は、花の見頃によりライトアップいたします。
※12月31日は午前6時に開門し元旦は午後9時頃(御参拝の状況により)に閉門いたします。
※御利用は御参拝の方のみとさせていただいております。
※梅まつり・藤まつり・菊まつり期間中は駐車場が大変混み合う恐れがございますので、公共の交通機関のご利用のご協力をお願い申し上げます。
九州太宰府天満宮の境内に習って造られ、心字池に架かる三つの橋は、それぞれ過去・現在・未来を表しています。橋を渡ることで心身を清め、御神前にお進みいただきます。
九州太宰府天満宮の境内に習って造られ、心字池に架かる三つの橋は、それぞれ過去・現在・未来を表しています。橋を渡ることで心身を清め、御神前にお進みいただきます。
卯の神として知られ御本殿の東側に建てられています。菅原道眞公の学問の先生を祀ってあり、特に1月の初卯、二の卯、三の卯は卯槌、卯の神札が配られます。
又、暦(こよみ)の十二支の卯にも関係します。卯とは、時間で午前6時頃を表し、邦楽は東を示し、色々な事がはじまり、広がっていく事を意味します。卯の日はその年によって異なります。火災除、雷除、商売繁盛、開運の神様です。
このお社は、菅公(菅原道真公)の奥様で、宣来子(のぶきこ)の方と14方のお子様がお祀りされています。
宣来子の方は、菅公と同門の学者島田忠巨の娘で、幼少の頃から親しみ、生涯苦学を共にするところでしたが、菅公左遷の折に妻子とも全国各地に別々に流された苦難の道を歩まれました。悲しみの中にも、妻として、母親としての想いに変わりなく、その2日曜日に花園社祭を執り行い、母の日にちなんで赤い花をお供えし、お御霊をお慰めしています。
●安産、子宝、育児、立身出世の守護神として信仰されています。
太宰府天満宮の心字池の近くに「志賀社」というお社(やしろ)があります。このお社は海など広く水をお守りする神で、当神社へは寛文5年7月にお祀りされました。
藤、太鼓橋、心字池などで当神社が江戸の新名所として有名になり、心字池畔に祭られているお社をその当時の文人が上野不忍池(しのばずいけ)に見立てて「弁天堂」「弁財天同」と称したことから「弁天社」と呼ばれるようになりました。弁天様は七福神の一神で芸道富裕の進行と融合し、福徳福智、芸能成就の神様として信仰され、今日では8月の例大祭で宮元会の会員が参列して祭典を行っています。
梅が香る2月25日にお祭りを執り行います。毎年大宰府から紅白の梅が奉納(ほうのう)され、学校などの公共施設に寄贈しています。
菅原道真公が左遷され、九州に旅立つ時、京都の紅梅殿の庭に、日頃可愛がっていた梅を見て、「東風(こち)吹かば匂いおこせよ梅の花あるじなしとて春なわすれそ」と詠った和歌は有名で、菅公を慕って飛んできたと言われるのが飛梅(とびうめ)で紅梅殿は「飛梅」の実生(みしょう)をお祀りしたお社です。
本殿に向かって左側に牛の像があります。参拝の方々が親しく触れることにより病を治し、知恵を授かるといわれています。
菅公と牛との関わりは色々ありますが、ご生誕が承和(じょうわ)12年(845年)6月25日の乙丑(きのとのうし)であることと、農耕に勤しむ牛の姿に深い慈愛の心を示され、牛の鳴き声で刺客から逃れられ、どこからともなくきた白牛に危機から救われ、又、菅公の「自分の身を京都に帰すことは願わぬ」という遺言により、御遺体を牛車におさめ、四堂(よつのどう)という所にさしかかると、牛が歩みを止めて動こうとしません。後にこの地が太宰府天満宮建立の起源と言われてこの年も丑年に当たるという御神縁があり、以来牛は天神様の神使(みつかわしめ)として篤(あつ)く信仰されています。
道真公の筆跡を神筆と称し、空海と小野道風とに並ぶ能書家といわれたことに因み「書道の神」と仰がれておりました。
そのことから、「筆塚祭」には書道上達、学問の向上を願う人々が、使い古した筆を納め、一層の上達を祈願します。
「昭和52年の道真公神忌1075年大祭記念とし奉納され、台座には5歳の時庭園の紅梅を詠まれた和歌を刻してあります。」
美しや
紅の色なる
梅の花
あこが顔にも
つけたくぞある
「昭和十五年九月に紀元二千六百年記念に氏子内の相五睦(墨田区緑一丁目の一部)から奉納され、鷽の縁起が記されています。」
境内には100近くの石碑が点在していますが、その中に松尾芭蕉句碑が境内の東側の参道にあります。後年深川に住まいを構え、庭に芭蕉を植えたところから、芭蕉庵と称し俳号を芭蕉と称しました。
「しばらくは花の上なる月夜哉」の句が詠まれ、芭蕉が吉野へ旅した時、満開の桜とその上に浮かぶ月を詠んだ句と言われます。そのほか6句刻まれていますがお弟子さんの句だそうです。「古池や蛙飛び込む水の音」はあまりにも有名です。又、辞世の句に「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」享年51
日本で初めてマッチの国産化に成功した清水誠氏の碑。
火を使うことにより私たちは今日の文明を築いてきたと言っても過言ではありませんが、明治の初期までは火打石などを使っていました。氏が明治3年にフランスに渡り造船学の傍らマッチの製造技法を学び明治9年に本所柳原町(今の両国高校の敷地)に新燧社(しんすいしゃ)を起こしマッチの工業化に尽くしました。当時の碑は戦火で破損しましたが、昭和50年8月に再建され、式典には岸信介元総理大臣も参列し「国産マッチ創始100年」の除幕式を挙行しました。ご存知かもしれませんが錦糸町から緑町への京葉道路に架かっている江東橋の欄干はマッチの軸の形をしています。
五歳の菅公像の後方に累卵塔と額刻り(がくぼり)し、その下にお盆らしきものの上に卵を七個積み重ねた線画が入っている碑があります。
累卵とは、卵を積み重ねることで、くずれやすく、きわめて危険な状態をたとえていう言葉で、明治20年3月に、明治天皇の主治医を務めた千葉愛石が、天神様を崇敬するとともに人命の危うき事を示そうとして献納しました。この碑は、裏面に大政奉還を行った十五代将軍 徳川慶喜公と深く関わった「幕末の三舟」と称された勝海舟、山岡鉄舟、高橋泥舟の名が刻まれています。中でも、勝海舟は本所亀沢町に生まれ、幕巨として官軍の西郷隆盛と会談のうえ、江戸の町を戦火から救うという大任を果たし、江戸城の無血開城の立役者としても知られています。
塩原太助が氏神様である当神社に1781年に石灯篭二基を奉納しましたが今は、御嶽神社の脇に一基残っています。
塩原太助は江戸時代の中期から後期にかけて、今の両国本所相生町で薪炭商を営み、一代で富を築き、その豊富な私財を道路の改修や土木工事など庶民のために投じたことから、義人(ぎじん)としての評判を得ました。今でも両国には「塩原橋」が残っています。まだ幼い頃、養子に出され、余りの苦労にたまりかねて、上州「群馬県」から親のいる江戸「東京」に出ることを決意し、大切に飼っていた馬の「青」が別れの時、涙を流したと伝えられています。
※義人 我が身の利害を顧みずに他人に尽くす人。
大鳥居をくぐり、太鼓橋と平橋を渡ってすぐ左側に心字池から柔らかな曲線の脚で支えられた琴柱灯篭があります。この名前は、琴の弦を支える琴柱の形に似ていることに由来します。
藤や梅の木に隠れて目立たない位置にありますが、天神様の灯篭は、金沢兼六園最大の人気スポットである有名な琴柱灯篭よりさらに大きく立派なものです。(この灯篭奉納の石碑には琴柱灯篭と記入されています。)
種類 | 期間 | 見頃 |
---|---|---|
梅まつり | 2月上旬~3月上旬 | 2月中旬頃 |
藤まつり | 4⽉中旬〜4⽉下旬 | 4月中旬頃 |
菊まつり | 10月下旬~11月中旬 | 11月上旬頃 |
※毎年気候等により大幅に見頃がずれる場合がございます。事前にお電話もしくは亀戸天神社 公式インスタグラムにてご確認いただくことをお奨めいたします。
九州太宰府天満宮の境内に習って造られ、心字池に架かる三つの橋は、それぞれ過去・現在・未来を表しています。橋を渡ることで心身を清め、御神前にお進みいただきます。
太鼓橋 男橋九州太宰府天満宮の境内に習って造られ、心字池に架かる三つの橋は、それぞれ過去・現在・未来を表しています。橋を渡ることで心身を清め、御神前にお進みいただきます。
太鼓橋 女橋卯の神として知られ御本殿の東側に建てられています。菅原道眞公の学問の先生を祀ってあり、特に1月の初卯、二の卯、三の卯は卯槌、卯の神札が配られます。
又、暦(こよみ)の十二支の卯にも関係します。卯とは、時間で午前6時頃を表し、邦楽は東を示し、色々な事がはじまり、広がっていく事を意味します。卯の日はその年によって異なります。火災除、雷除、商売繁盛、開運の神様です。
御嶽神社このお社は、菅公(菅原道真公)の奥様で、宣来子(のぶきこ)の方と14方のお子様がお祀りされています。
宣来子の方は、菅公と同門の学者島田忠巨の娘で、幼少の頃から親しみ、生涯苦学を共にするところでしたが、菅公左遷の折に妻子とも全国各地に別々に流された苦難の道を歩まれました。悲しみの中にも、妻として、母親としての想いに変わりなく、その2日曜日に花園社祭を執り行い、母の日にちなんで赤い花をお供えし、お御霊をお慰めしています。
●安産、子宝、育児、立身出世の守護神として信仰されています。
太宰府天満宮の心字池の近くに「志賀社」というお社(やしろ)があります。このお社は海など広く水をお守りする神で、当神社へは寛文5年7月にお祀りされました。
藤、太鼓橋、心字池などで当神社が江戸の新名所として有名になり、心字池畔に祭られているお社をその当時の文人が上野不忍池(しのばずいけ)に見立てて「弁天堂」「弁財天同」と称したことから「弁天社」と呼ばれるようになりました。弁天様は七福神の一神で芸道富裕の進行と融合し、福徳福智、芸能成就の神様として信仰され、今日では8月の例大祭で宮元会の会員が参列して祭典を行っています。
弁天社梅が香る2月25日にお祭りを執り行います。毎年大宰府から紅白の梅が奉納(ほうのう)され、学校などの公共施設に寄贈しています。
菅原道真公が左遷され、九州に旅立つ時、京都の紅梅殿の庭に、日頃可愛がっていた梅を見て、「東風(こち)吹かば匂いおこせよ梅の花あるじなしとて春なわすれそ」と詠った和歌は有名で、菅公を慕って飛んできたと言われるのが飛梅(とびうめ)で紅梅殿は「飛梅」の実生(みしょう)をお祀りしたお社です。
紅梅殿本殿に向かって左側に牛の像があります。参拝の方々が親しく触れることにより病を治し、知恵を授かるといわれています。
菅公と牛との関わりは色々ありますが、ご生誕が承和(じょうわ)12年(845年)6月25日の乙丑(きのとのうし)であることと、農耕に勤しむ牛の姿に深い慈愛の心を示され、牛の鳴き声で刺客から逃れられ、どこからともなくきた白牛に危機から救われ、又、菅公の「自分の身を京都に帰すことは願わぬ」という遺言により、御遺体を牛車におさめ、四堂(よつのどう)という所にさしかかると、牛が歩みを止めて動こうとしません。後にこの地が太宰府天満宮建立の起源と言われてこの年も丑年に当たるという御神縁があり、以来牛は天神様の神使(みつかわしめ)として篤(あつ)く信仰されています。
道真公の筆跡を神筆と称し、空海と小野道風とに並ぶ能書家といわれたことに因み「書道の神」と仰がれておりました。
そのことから、「筆塚祭」には書道上達、学問の向上を願う人々が、使い古した筆を納め、一層の上達を祈願します。
筆塚「昭和52年の道真公神忌1075年大祭記念とし奉納され、台座には5歳の時庭園の紅梅を詠まれた和歌を刻してあります。」
美しや
紅の色なる
梅の花
あこが顔にも
つけたくぞある
「昭和十五年九月に紀元二千六百年記念に氏子内の相五睦(墨田区緑一丁目の一部)から奉納され、鷽の縁起が記されています。」
鷽の碑境内には100近くの石碑が点在していますが、その中に松尾芭蕉句碑が境内の東側の参道にあります。後年深川に住まいを構え、庭に芭蕉を植えたところから、芭蕉庵と称し俳号を芭蕉と称しました。
「しばらくは花の上なる月夜哉」の句が詠まれ、芭蕉が吉野へ旅した時、満開の桜とその上に浮かぶ月を詠んだ句と言われます。そのほか6句刻まれていますがお弟子さんの句だそうです。「古池や蛙飛び込む水の音」はあまりにも有名です。又、辞世の句に「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」享年51
松尾芭蕉句碑日本で初めてマッチの国産化に成功した清水誠氏の碑。
火を使うことにより私たちは今日の文明を築いてきたと言っても過言ではありませんが、明治の初期までは火打石などを使っていました。氏が明治3年にフランスに渡り造船学の傍らマッチの製造技法を学び明治9年に本所柳原町(今の両国高校の敷地)に新燧社(しんすいしゃ)を起こしマッチの工業化に尽くしました。当時の碑は戦火で破損しましたが、昭和50年8月に再建され、式典には岸信介元総理大臣も参列し「国産マッチ創始100年」の除幕式を挙行しました。ご存知かもしれませんが錦糸町から緑町への京葉道路に架かっている江東橋の欄干はマッチの軸の形をしています。
燐寸塚五歳の菅公像の後方に累卵塔と額刻り(がくぼり)し、その下にお盆らしきものの上に卵を七個積み重ねた線画が入っている碑があります。
累卵とは、卵を積み重ねることで、くずれやすく、きわめて危険な状態をたとえていう言葉で、明治20年3月に、明治天皇の主治医を務めた千葉愛石が、天神様を崇敬するとともに人命の危うき事を示そうとして献納しました。この碑は、裏面に大政奉還を行った十五代将軍 徳川慶喜公と深く関わった「幕末の三舟」と称された勝海舟、山岡鉄舟、高橋泥舟の名が刻まれています。中でも、勝海舟は本所亀沢町に生まれ、幕巨として官軍の西郷隆盛と会談のうえ、江戸の町を戦火から救うという大任を果たし、江戸城の無血開城の立役者としても知られています。
累卵塔塩原太助が氏神様である当神社に1781年に石灯篭二基を奉納しましたが今は、御嶽神社の脇に一基残っています。
塩原太助は江戸時代の中期から後期にかけて、今の両国本所相生町で薪炭商を営み、一代で富を築き、その豊富な私財を道路の改修や土木工事など庶民のために投じたことから、義人(ぎじん)としての評判を得ました。今でも両国には「塩原橋」が残っています。まだ幼い頃、養子に出され、余りの苦労にたまりかねて、上州「群馬県」から親のいる江戸「東京」に出ることを決意し、大切に飼っていた馬の「青」が別れの時、涙を流したと伝えられています。
※義人 我が身の利害を顧みずに他人に尽くす人。
大鳥居をくぐり、太鼓橋と平橋を渡ってすぐ左側に心字池から柔らかな曲線の脚で支えられた琴柱灯篭があります。この名前は、琴の弦を支える琴柱の形に似ていることに由来します。
藤や梅の木に隠れて目立たない位置にありますが、天神様の灯篭は、金沢兼六園最大の人気スポットである有名な琴柱灯篭よりさらに大きく立派なものです。(この灯篭奉納の石碑には琴柱灯篭と記入されています。)
琴柱灯篭境内での出張撮影は提携写真館のみ可能です。詳しくは提携写真館(福地写真館)までお問い合わせください。
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