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境内のご案内

境内のご案内

太鼓橋 男橋
(たいこばし) 1

大鳥居をくぐると心字池があり、3つの橋が架けられ、九州太宰府天満宮の境内にならって造られています。これは池と橋を人の一生に見立てた「三世一念の理」と言って、最初の太鼓橋(男橋)は生きてきた過去を、つぎの平橋(ひらばし)は今が見える現在を、つぎの太鼓橋(女橋)は希望の未来をあらわし、3つの橋を渡るごとに心が清められ、神前へと進みます。心字池と太鼓橋はその形により、神様に近づく道具公の波乱の生涯と重ね合わせて造られたように感じられます。

太鼓橋 女橋
(たいこばし) 1

大鳥居をくぐると心字池があり、3つの橋が架けられ、九州太宰府天満宮の境内にならって造られています。これは池と橋を人の一生に見立てた「三世一念の理」と言って、最初の太鼓橋(男橋)は生きてきた過去を、つぎの平橋(ひらばし)は今が見える現在を、つぎの太鼓橋(女橋)は希望の未来をあらわし、3つの橋を渡るごとに心が清められ、神前へと進みます。心字池と太鼓橋はその形により、神様に近づく道具公の波乱の生涯と重ね合わせて造られたように感じられます。

御嶽神社
(みたけじんじゃ) 1

卯の神として知られ、本殿の東側に建てられています。菅原道真公(すがわらみちざねこう)の学問の先生を祀(まつ)ってあり、特に1月の初卯、二の卯、三の卯は卯槌(うずち)、卯の神札(おふだ)が配られます。又暦(こよみ)の十二支の卯にも関係します。卯とは、時間で午前6時頃を表し、方角は東を示し、色々な事がはじまり、広がっていく事を意味します。卯の日はその年によって異なります。火災除、雪除、商売繁盛、開運の神様です。

花園社
(はなぞのしゃ) 1

このお社は、菅公(菅原道真公)の奥様で、宣来子(のぶきこ)の方と14方のお子様がお祀りされています。宣来子の方は、菅公と同門の学者島田忠巨の娘で、幼少の頃から親しみ、生涯苦楽を共にするところでしたが、菅公左遷の折に、妻子とも全国各地に別々に流された苦難の道を歩まれました。悲しみの中にも、妻として、母親としての想いに変わりなく、その背景から心字池の畔(ほとり)に建立され、5月の第2日曜日に花園社祭を執り行い、母の日にちなんで赤い花をお供えし、御霊をお慰めしています。
●安産、子宝、育児、立身出世の守護神として信仰されています。

弁天社
(べんてんしゃ) 1

太宰府天満宮の心字池の近くに「志賀社」というお社(やしろ)があります。このお社は海など広く水をお守りする神で、当神社へは寛文5年7月にお祀りされました。藤、太鼓橋、心字池などで当神社が江戸の新名所として有名になり、心字池畔に祀られているお社をその当時の文人が上野不忍池(しのばずのいけ)に見立てて「弁天堂」「弁財天堂」と称したことから「弁天社」と呼ばれるようになりました。弁天様は七福神の一神で芸道富裕の信仰と融合し、福徳福智、芸能成就の神様として信仰され、今日では8月の例大祭で宮元会の会員が参列して祭典を行っています。

紅梅殿
(こうばいでん) 1

菅原道真公が左遷され、九州に旅立つ時、京都の紅梅殿の庭に、日頃可愛がっていた梅を見て、「東風(こち)吹かば匂いおこせよ梅の花あるじなしとて春なわすれそ」と詠った和歌は有名で、菅公が京都から九州の太宰府へ渡ったとき、菅公を慕って飛んできたと言われるのが飛梅(とびうめ)で、紅梅殿はこの「飛梅」の実生(みしょう)をお祀りしたお社で、梅が香る2月25日にお祭りを執り行います。毎年太宰府から紅白の梅が奉納(ほうのう)され、学校などの公共施設に寄贈しています。

神牛
(しんぎゅう) 1

本殿に向かって左側に牛の像があります。参拝の方々が親しく触れることにより病を治し、知恵を授かるといわれています。菅公と牛の関わりは色々ありますが、ご生誕が承和(じょうわ)12年(845年)6月25日の乙丑(きのとのうし)であることと、農耕に勤しむ牛の姿に深い慈愛の心を示され、牛の鳴き声で刺客から逃れられ、どこからともなく来た白牛に危難から救われ、又、菅公の「自分の身を京都に帰すことは願わぬ」という遺言により、御遺体を牛車におさめ、四堂(よつのどう)という所にさしかかると、牛が歩みを止めて動こうとしません。後にこの地が、太宰府天満宮建立の起源と言われてこの年も丑年に当たるという御神縁があり、以来牛は天神様の神使(みつかわしめ)として篤(あつ)く信仰されています。

筆塚
(ふでづか) 1

道真公の筆跡を神筆と称し、空海と小野道風とに並ぶ能書家といわれたことに因み「書道の神」と仰がれておりました。そのことから、「筆塚祭」には書道上達、学問の向上を願う人々が、使い古した筆を納め、一層の上達を祈願します。

五歳菅公像
(ごさいかんこうぞう) 1

「昭和52年の道真公御神忌1075年大祭記念とし奉納され、台座には5歳の時庭前の紅梅を詠まれた和歌を刻してあります。」

鷽の碑
(うそのひ) 1

「昭和十五年九月に紀元二千六百年記念に氏子内の相五睦(墨田区緑一丁目の一部)から奉納され、鷽の縁起が記されています。」

松尾芭蕉句碑
(まつおばしょうくひ) 1

境内には100近くの石碑が点在していますが、その中に松尾芭蕉が句碑が境内の東側の参道にあります。後年深川に住まいを構え、庭に芭蕉を植えたところから、芭蕉庵と称し俳号を芭蕉と称しました。「しばらくは花の上なる月夜哉」の句が詠まれ、芭蕉が吉野へ旅した時、満開の桜とその上に浮かぶ月を詠んだ句と言われます。その他6句刻まれていますがお弟子さんの句だそうです。「古池や蛙飛び込む水の音」はあまりにも有名です。又、辞世の句に「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」亨年51

燐寸塚
(マッチづか) 1

日本で初めてマッチの国産化に成功した清水誠氏の碑。火を使うことにより私たちは今日の文明を築いてきたと言っても過言ではありませんが、明治の初期までは火打ち石などを使っていました。氏が明治3年にフランスに渡り造船学の傍らマッチの製造技法を学び明治9年に本所柳原町(今の両国高校の敷地)に新燧社(しんすいしゃ)を起こしマッチの工業化に尽くしました。当時の碑は戦炎で破損しましたが、昭和50年8月に再建され、式典には、岸信介元総理大臣も参列し「国産マッチ創始100年」の除幕式を挙行しました。ご存知かも知れませんが錦糸町から緑町への京葉道路に架かっている江東橋の欄干はマッチの軸の形をしています。

累卵塔
(るいらんとう) 1

五歳の菅公像の後方に.累卵塔と額刻り(がくぼり)し、その下にお盆らしきものの上に卵を七個積み重ねた線画が入っている碑があります。累卵とは、卵を積み重ねることで、くずれやすく、きわめて危険な状態をたとえていう言葉で、明治20年3月に、明治天皇の主治医を務めた千葉愛石が、天神様を崇敬するとともに人命の危うき事を示そうとして献納しました。この碑は、裏面に大政奉還を行った十五代将軍 徳川慶喜公と深く関わった「幕末の三舟」と称された勝海舟、山岡鉄舟、高橋泥舟の名が刻まれています。中でも、勝海舟は本所亀沢町に生まれ、幕巨として官軍の西郷隆盛と会談のうえ、江戸の町を戦火から救うという大任を果たし、江戸城の無血開城の立役者といても知られています。

太助灯籠
(たすけどうろう) 1

塩原太助は江戸時代の中期から後期にかけて、今の両国本所相生町で薪炭商を営み、一代で富を築き、その豊富な私財を道路の改修や土木工事など庶民のために投じたことから、義人(ぎじん)としての評判を得ました。今でも両国には「塩原橋」が残っています。氏神様である当神社に1781年に石灯籠二基を奉納しましたが今は、御嶽神社の脇に一基残っています。まだ幼い頃、養子に出され、余りの苦労にたまりかねて、上州「群馬県」から親の居る江戸「東京」に出ることを決意し、大切に飼っていた馬の「青」が別れの時、涙を流したと伝えられています。※義人 我が身の利害を顧みずに他人のためにつくす人。

琴柱灯籠
(ことじどうろう) 1

大鳥居をくぐり、太鼓橋と平橋を渡ってすぐ左側に心字池から柔らかな曲線の脚で支えられた琴柱灯籠があります。
この名前は、琴の弦を支える琴柱の形に似ていることに由来します。
藤や梅の木に隠れて目立たない位置にありますが、天神様の灯籠は、金沢兼六園最大の人気スポットである有名な琴柱灯籠よりさらに大きく立派なものです。(この灯籠奉納の石碑には琴字橙籠と記入されています。)

天野信景の研究

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